開川(개천)から「清渓川」という名前を得るまで — 展示解説板・年表・新聞記事で見る550年。清渓川博物館(ソウル)の現地展示写真をもとに再構成した。
展示の導入パネルは、清渓川の時間軸を次のように要約している。「1394年に朝鮮王朝の都となって以来600年余り、ソウルは朝鮮半島の中心であり続けた。都城内と城外10里(4km)までの行政区域は朝鮮時代を通じて維持されたが、1914年に縮小し、1936年以降は再び拡大を重ねた。現在のソウルは人口1,000万人余り、面積605.4km²、25の行政区からなる世界有数の巨大都市である。」
清渓川は朝鮮時代を通じてソウルの都市の骨格であったが、近代化の過程で「都市発展を妨げる障害物」とみなされるようになった。その結果、支流が一つ、また一つと暗渠化され、1977年に全区間の暗渠化が完了した。その後、生活の質と自然への要求が高まり、2002年に復元事業が決定、2005年に完工したという流れである。
朝鮮初期、自然の川であった水路は、太宗代の開渠(開削)工事を経て「開川」と呼ばれるようになった。その後長らく浚渫が行われず土砂が堆積したため、英祖36年(1760年)2月、宋橋(ソンギギョ)から永渡橋(ヨンドギョ)までの区間を8区域に分け、大規模な濬川(浚渫)工事が実施された。漢城府民15万人と雇用人夫5万人、計20万人が動員され、銭3万5千余両と米2,300余石が投入され、57日間にわたって行われた。
この事業を管理する常設機関として濬川司が設置された。1773年には白雲洞川・三清洞川の合流地点から五間水門付近まで石築を積み、曲がりくねっていた水路を直線化した。水標橋の橋脚には、この工事を記念して「庚辰地平(경진지평)」の銘が刻まれ、展示された「朝鮮城市図」(1830年頃)は、この時期に整備された都城の姿を伝えている。
石柱には1尺から10尺までの目盛りが刻まれ、3・6・9尺の位置には○印が刻まれた。それぞれ渇水(干ばつ)・平水(平常)・大水(洪水)の基準とされた。
白雲洞川・玉流洞川一帯、すなわち広通橋の上流にあたる地域は「ウッテ(上村)」と呼ばれた。官庁街に近く、下級官吏らが多く暮らし、山容が秀麗で水が清らかだったため、詩人・墨客が好んで集まった。
謙斎鄭敾は仁王山一帯の美しさを独自の画風で描き、真景山水画を確立した画家であり、ウッテはその画業の主要な舞台であった。朝鮮後期には中人階層の文学活動もこの地域で盛んに行われた。1786年に結成された松石園詩社(玉溪詩社)は、千寿慶の邸宅・松石園で結成され、30年余り続いた中人階層最大の詩社である。仁王山弼雲台で開かれた詩会は「弼雲台風月」と呼ばれた。
清渓川を境に、漢陽(旧ソウル)は身分・階層によって居住地が明確に分かれていた(上村・中村・下村・北村・南村・東村・西村など)。展示された地図やパネルはこの区分を詳しく示し、皇城新聞(1900年頃)の記事を通じて大韓帝国期まで続いたこの生活の様子を紹介している。
主な橋・施設: 広通橋(太宗9年〈1409年〉に石築と神将像が造られた)、水標橋(世宗2年〈1420年〉築造)、五間水門(興仁之門〈東大門〉南側の城壁下に設けられた、川の水が都城外へ流れ出るための5間の水門)、サルコッチダリ(살곶이다리)(朝鮮時代最長の石橋)。
仮山は日本統治時代に姿を消したが、橋の下に貧民が暮らすという構造は、解放後まで続く都市の姿の出発点として提示されている。
つまり「清渓川」という名称そのものが、日本統治時代初期の河川調査という行政過程で付けられたものであり、その名の意味(「清らかな渓流」)とは逆方向に水質が急速に悪化していったという点を、展示は強調している。
展示は1914年の「京城府明細新地図」を根拠に、清渓川が植民地京城において日本人居住地(町)と朝鮮人居住地(洞)を分ける境界線として機能していたことを、統計をもって示している。
清渓川以南には朝鮮総督府など植民統治機構と日本人商圏が集中していた一方、以北は朝鮮人居住地として残り、一本の川を境に明確な民族別空間分離が存在していたことを示している。
京城府は清渓川の汚染緩和を名目に、4段階にわたる「京城下水道改修計画」を推進した。
| 段階 | 実施期間 | 主な内容 | 規模 |
|---|---|---|---|
| 第1期 | 1918〜1924 | 黄土峴〜宗橋、金淸橋付近の暗渠化 | 延長17,805.40m・17幹線・工費161万6,621円68銭 |
| 第2期 | 1925〜1931 | 都市環境整備事業、支流の暗渠化開始 | 延長9,099.86m・5幹線4支線・工費117万7,218円11銭 |
| 第3期 | 1933〜1936 | 白雲洞川・玉流洞川・楼閣洞川・社稷洞川などの支流が消滅 | 延長10,394.21m・29カ所・工費11万8,456円83銭 |
| 第4期 | 1937〜1943 | 太平路〜広通橋区間の暗渠化準備(計画段階) | — |
1919年5月17日付『毎日申報』は、清渓川の改修工事着手を報じている。「今般より本工事に着手、今年の夏にもある程度の効果が期待される」という趣旨の記事であった。
1920年代から衛生・環境問題の解決を名目に清渓川の全面暗渠化論が提起され、これは1934年、日本の侵略戦争準備と結びついた「大京城計画」の策定、そして1936年の京城府行政区域拡張を契機に具体化した。
つまり清渓川の全面暗渠化と高架道路という構想自体は、すでに1930年代の日本統治時代に登場していたが、実現は予算不足により頓挫し、これが後の1958〜1977年の暗渠化・1971年の清渓高架道路建設へとつながっていくことになる。