解放後のバラック村形成から暗渠化・清渓高架道路の建設、そして2003〜2005年の復元事業まで — 清渓川博物館の現地展示資料に基づいて再構成した、清渓川復元の歴史と評価。
展示パネル「満員のソウル」は、人口急増の構造を次のように説明する。朝鮮戦争によってソウルの住宅・インフラ・生産施設の多くが破壊された後、市民は何も持たない状態から都市を再建しなければならなかった。戦後復興の過程と1960年代の経済開発が重なり、地方出身者や北朝鮮からの越南民がソウルへ押し寄せた。
都市インフラがこの速度に追いつかず、行き場のない新しいソウル市民の多くは丘陵地や川辺にバラックを建てた。特に1950年代、中国軍の介入により韓国軍・国連軍が38度線以北から撤退する過程で大挙南下した越南民たちは、日本統治時代に日本人居住地であった南山周辺など、既存の越南民集住地の近くに再び居を構えた。
清渓川沿いのバラックは洪水に弱く、火災も頻発し、共同便所を共有する劣悪な環境であった。ハン・ヨンス、ホン・スンテ、キム・ハニョンらの写真家が1950〜70年代に残した記録は、長橋(チャンギョ)・水標橋一帯のバラック村と市場の生活の様子を伝えている。展示は清渓川沿いの不法バラック村のルーツを、朝鮮後期の橋の下や五間水門周辺の貧民居住の慣行にまでさかのぼって説明し、近代化以降もソウルの人口が急増するたびに、清渓川が最も貧しい人々の最後の居場所となってきたことを強調している。
暗渠化工事は水路を覆う土木事業であると同時に、川辺のバラックを撤去する事業でもあった。バラックが立ち並んでいた清渓川の両岸には近代的な商店街ビルが東西に長く伸び、1960〜70年代の「漢江の奇跡」を生んだ産業現場の中心地としての役割を果たした。
| 時期 | 区間 | 備考 |
|---|---|---|
| 1958.5.25 | 着工(広通橋〜東大門・五間水門) | 3カ年計画、ICA(国際協力局)資金20万ドル+国費6億ウォン |
| 1961.12.5 | 第1段階完工・開通(広通橋〜五間水門、2,358m) | 総工費23億3,252万ファン、延べ動員24万2,087人 |
| 1965〜1967 | 五間水門〜第2清渓橋(新設洞方面) | 第2段階 |
| 1970〜1977 | 新設洞〜新踏鉄橋 | 第3段階、全区間完工 |
1977年12月31日、清渓川の本流全体が地下へ姿を消した。こうして「清渓川」は地図から消え、その上に「清渓路」が誕生した。
太平洋戦争末期、日本が米軍の空襲に備えるという名目で宗廟前〜南山山麓の区間を撤去して作った空き地には、解放と戦争を経てバラックが密集し、スラム(「鍾三」)が形成された。1968年、ソウル市はこの一帯を全面撤去し、建築家キム・スグンが設計した、国内初の民間資本による高級複合住商ビルセウン商街を建設した。キム・ヒョンオク・ソウル市長は「世界の気運がここに集まるように」という意味を込めてこの名を付けた。
清渓川沿い、特に平和市場を中心とする東大門一帯は、輸出向け衣類・かつら産業の後背地であった。若い女性労働者たちが1日12時間以上ミシンを踏み、劣悪な賃金しか得られなかった。1970年冬、平和市場の労働者チョン・テイル(全泰壱)が清渓路で労働者の権利を訴えて焼身自殺した — 彼の死は、韓国の労働運動史における一大転換点となった。
1960年代から高架道路や立体交差路といった道路施設が登場し、清渓川の上に高架道路を通すという構想も現実化していった。1967年5月にソウル市へ提出された『清渓川隠居及び高速高架道路建設事業計画書』は、梨大入口〜馬場洞の区間、予想建設費900億ウォン余りの規模であった。この計画は何度かの変更を経て実現した。
この高架橋は、コンクリートではなく桁と床版のいずれにも鋼材を用いた、韓国初の形式の橋であった — アメリカ・日本の技術が導入され、床版の鋼材は日本から輸入された。ソウル近代化の象徴とされた清渓高架道路は、2000年代初頭には老朽化により大がかりな対策が避けられない施設となり、次章の論争の舞台となっていく。
1990年代半ば以降、成長・開発中心のパラダイムが揺らぎ始めた。聖水大橋の崩落(1994年、死傷者49人)、三豊百貨店の崩落(1995年、死傷者1,445人)、1997年のIMF通貨危機は、開発時代の負の側面を露わにした。ここに地方自治制の導入と市民社会の成長が重なり、開発至上主義の後退・歴史文化遺産の保全・生態自然の尊重という新たな価値が、ソウル市政策の重要な軸として浮かび上がった。
2001年、ソウル市建設安全本部が清渓高架道路の構造安全性を精密診断した結果、全面的な補修が急務であるという結論が出た。ソウル市は最も脆弱な忠武路高架道路から優先的に補修し、残りの区間を全面補修するか撤去するかは次期市長の判断に委ねるとして、予算(約1,000億ウォン)だけを編成して残した — 2002年のサッカーワールドカップ日韓大会を控え、都心の大動脈への大手術を避けるための措置であった。
清渓川復元問題は、2002年の民選第3期ソウル市長選挙(2002年6月13日)における最大の争点であった。ハンナラ党の李明博候補は清渓川復元を公約に掲げ、民主党の金民錫候補は「十分な議論が必要な大規模事業であり、中長期的に検討すべきだ」と反論した。論争が激しくなるほど市民の関心は高まり、この問題が選挙結果に大きな影響を与えた。李明博候補が当選すると、ソウル市は直ちに復元の準備に着手した。
李明博市長は就任日である2002年7月1日、直ちに清渓川復元推進本部を組織した。政策の方向性を示し世論を集約する清渓川復元市民委員会、実行計画と事業進行を担う推進本部、妥当性調査・研究・設計を担当する清渓川復元研究団の3組織が事業を主導した。しかし準備は平坦ではなかった — 当時の新聞は「ソウル市と市民委が深刻な対立」(文化財復元をめぐる摩擦)、「26人が任期満了の前日に抗議の一斉辞任」(市民委第1期の混乱)などと報じた。商人・地域住民との意見調整の中で、準備は急ピッチで進められたと展示は述べている。
復元基本計画は2002年7月から2004年6月まで24カ月かけて策定され、主な内容は2003年2月11日に発表された。復元区間5.84kmは、歴史・伝統(清渓広場〜公平洞市場)、文化・現代(広蔵市場〜蘭渓路)、自然・未来(蘭渓路〜新踏鉄橋)、渡り鳥保護区域(新踏鉄橋下流)の4区間に分けられた。復元の第一歩は、2003年12月から約7カ月間行われた発掘調査であった — この調査で広通橋・水標橋址・五間水門址などの橋の遺構や、川辺の護岸石築が明らかになった。
撤去はランプ → 高架床版 → 橋脚 → 暗渠構造物 → 暗渠下部橋脚 → 高架基礎の順に、9つの班が3班ずつに分かれて進めた。清渓高架(5km)と三一高架(817m)、暗渠道路橋脚371基、暗渠下部橋脚6,700基、ランプ10カ所、歩道橋7カ所が撤去された。撤去廃棄物は総量90万7,000トン(ダンプトラック6万5,500台分)に上り、鉄材は全量、コンクリートとアスファルトの96%を再利用した。
工事期間中、1日17万台に及んだ車両通行が最大の課題であった。ソウル市は2車線を確保し迂回路を整備、違法駐停車の取り締まりを強化するとともに、2004年にバス路線体系と乗り換え制度を大幅に再編し、公共交通機関の利用分担率を高めることで対応した。
ソウル市は、清渓川沿いで営業していた商人たちの理解を得て対策を講じることを、事業推進の核心課題の一つに挙げたとしている。営業継続を希望する業種には営業の不便を最小化し商圏を活性化する対策を、移転を希望する業種には移住支援策を用意したという — 松坡区文井洞に規模83,852㎡(25,365坪)の移転団地を造成し、東大門運動場付近には露店商のための「風物市場」を開設した(この移転団地が後の「ガーデンファイブ」である)。ただし実際には、当初提示された分譲価格と実際の分譲価格の差、商圏活性化の不振などにより、移転契約を結んだ商人が想定を大きく下回ったことが、その後の各種報道でたびたび指摘されている。
展示は、清渓川復元がソウルの他の河川政策に与えた影響についても紹介している。コンクリートの直線水路であった良才川が1995年に自然型河川へ改修されたのを皮切りに、弘済川・仏光川・炭川・城北川などが次々と「親水空間」へと生まれ変わった。2003年8月の『ハンギョレ』紙の報道によれば、ソウル市は市内の暗渠化された河川27カ所などを新たに実態調査し、段階的な復元計画を策定した。これに基づき2008〜2012年、弘済川・仏光川・道林川・唐峴川・高徳川・牛耳川・道峰川・木洞川・城北川・世谷川・汝矣川・望月川・大棟川・放鶴川など14の河川が親水空間として復元された。清渓川とともに清渓高架・三一高架が撤去された後、華陽・文来・弘智・阿峴などの高架道路を含む、ソウル市内16カ所の高架道路が順次撤去された。博物館が展示する自らの交通量・速度統計は、撤去後も都心の通行速度が大きく低下しなかったことを示している。